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ベートーヴェンは日本のインチキ作曲家

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 8月27日(火)10時06分12秒
返信・引用
  ベートーヴェンは日本のインチキ作曲家

http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p009.html#page106

現代でも「丸投げ」という伝統は日本社会に根深い。
大学教授、企業研究者、作家、作曲家、画家・・・・・、
これらの有名人は、貧乏だが有能な者をいじめて、「丸投げ」仕事を強制する。
「君の名前では全然売れないよ。私の作品にすれば1億円の価値になる。
君には300万やるから頑張ってくれ。」

(仮説を含む)

( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/01/p008.html )
 
 

ごぶさたしております

 投稿者:たけどん  投稿日:2011年11月17日(木)19時30分57秒
返信・引用
  ごぶさたしております。たけどんです。
震災からあっという間に、半年以上が経ってしまいました。
復興もまだまだ道半ばというところ。
当初は、いろいろと書きたいこともあったのですが、情報が錯綜しているさなか
また事態も変化しているとあって、「やめとこか」でありました。

皆さんも、いろいろと生活等に変化があったと思いますが、
ようやく落ち着いてみると、ナカナカ今度は何を書いてよいものやら・・・。

書きたいこと、書けることはたくさんあるのに、
何を語るべきか、ふさわしいものとなると・・・むずかしいものです。

ビケ♪さんもお元気そうでなによりです。
とりあえず、おいらも今日まで生きてましたので、ひさしぶりに
書き込んでみました。

とりあえずご挨拶ということでス。では~。
 

大災害のあとで

 投稿者:たけどん  投稿日:2011年 4月 2日(土)19時19分12秒
返信・引用
  未曾有の大災害発生から3週間以上が過ぎました。
地震発生当時、おいらは駐車場で、5分以上(10分くらいだったかも)、
地面だけでなく電線や、信号機まで目に見えて大きく揺れるのを
「こりゃ尋常じゃねーな」と感じていました。

中越の震災もあったので、揺れ自体には冷静に対応するようになってはいる。
コワイことは怖いし、余震に「ドキッ」とするのは止めようがないけれども。

・・・だが、まさか。これほどの災害になろうとは・・・。

衝撃的な津波の襲いかかる映像。
津波が退いた後の惨状の数々。「こんなの、あり得ない・・・」
その後の、原発の問題の長期化。政府の対応のまずさ。
マスコミの、センセーショナリズムに走る報道。
すべてが、悪い方へと向かっているかのような状況。
「あり得ない・・・」

失われたヒトのモノも、壊滅した町や村は取り戻すことはできない。
だが、そんな中でも、とある報道の中で、廃墟となった我が家から、
アルバムを探す人の姿が印象的だった。
自衛隊なども、遺体を探す作業の最中でも、アルバムや思い出の品を
保管しておくために、集めているシーンも心に訴えかけた。

被災された方々は、少しでも落ち着くことができただろうか?
人は、連綿と続く苦しみの毎日であっても、ふと、安らぐ瞬間を持つことが
できるものなのだ。だからまた明日に向かって生き続けることもできる。


被災者の方々の心境は、察するに余りあり、掛ける言葉もない。
そこで、と言ってはなんだが、ネットで拾った海外からの
援助や、言葉をいくつかあつめてみた。


~~災害後の 被災者たちの行動に関して。

日本の文化や社会を専門とするジョージタウン大学のケビン・ドーク教授。

「日本国民が自制や自己犠牲の姿勢でこの大災害に対応した様子は
広い意味での日本の文化を痛感させた。
日本の文化や伝統も米軍の占領政策などによりかなり変えられ
たのではないかと思いがちだったが、
文化の核の部分は決して変わらないのだと今回、思わされた」と述べた。

~~支援等について。

 東日本大震災で、東南アジアの発展途上国からの日本支援が相次いでいる。
これまで経済危機や自然災害に見舞われるたびに日本から支援を受けて
きたこれらの国々は「今度は恩返しする番」(タイのガシット外相)と、
義援金や救助隊、支援物資を競い合うように日本に送る。
一般国民の寄付金も相当額に上っており、「日本に対する特別な親近感」が浮き彫りになっている

 「いつも手を差し伸べてくれた日本を全面的に支援する」。
震災発生直後に2億バーツ(約5億4千万円)の支援を決めたタイのアビシット首相は21日、
バンコクの外国特派員クラブで講演、被災者支援にできる限りのことを繰り返した。

インドメシアも「日本は本当に信頼できる友人。政府だけでなく人々も、
いつも惜しみなく支援してくれた」(マルティ外相)として。200万ドル
(約1億6千万円)の義援金と15人の救助隊を日本に送った。

ハノイの日本大使館を弔問したグエン・タン・ズン首相が
「親友として日本の国難を完全に共有する」と話した。
ベトナムは義援金20万ドルを拠出。
1人当たり国内総生産(GDP)が千ドルに満たないカンボジャ、ラオス、ミャンマーも
それぞれ義援金10万ドルを送った。

 東日本大震災に見舞われた日本に対し、世界各国や国際機関から
支援の申し出が続いている。
「困難な時期に、日本国民が、われわれのそばにいたことを決して忘れない」
(アフガニスタンのカルザイ大統領)と、日本が援助の手を差し伸べてきた
発展途上国からのエールも目立っている。

 日本外務省によると24日午後5時までに、
支援表明があったのは132カ国・地域と34国際機関。
1995年に発生した阪神大震災の際は、被災1カ月後の時点で支援表明した
国・地域、国際機関は計71。これと比べれば倍以上のペースだ。


ありがたいことだ・・・。
現時点では、できることは限られている。が、
我々自身も、できることをしなければ。
おいらの地方も水害や地震の災害で、他の地域の方々から大変な
援助と励ましをいただいた。だからこそ、こう思えてならないのだ。
「この度の災害で、全てを失い、そして今も苦しんでいる方々は、
 我々の代わりに苦しんでいるのだ、我々の代わりに、失ったのだ」、と。

実は、様々な事柄について、怒りを感じてもいるのだが、
とりあえず、今はそれを抑えて、事態の推移を祈りながら、見守ろうと思う。

おそらく、この天災は「始まり」なのだと思う。(別に宗教、予言めいた話ではない)
高い高い対価をを支払うことになったが、この転機を活かさなければ
亡くなられた方々、そして犠牲となって苦しんでいる方々に顔向けができないのだ。

そして、被災地域を含めこの国は、必ず、復活すると信じている。
 

CDプレーヤと音楽

 投稿者:たけどん  投稿日:2011年 1月 6日(木)20時54分10秒
返信・引用
  明けまして おめでとうございます。

本年も、ビケ♪さんはじめ、みなさんにとりまして好い年でありますよう。


・・・というわけで、昨年末オークションでCDプレーヤを落札しましたな。
発売当時約10万円の機種ですが、バブルの頃の物量を投入した機種からすると
つくりもヤワだし。側板や天板たたくと、パインパインと軽い音がする。「いかんな」。
ネジを取って中を開いてみると、中身がなんだかスッカスカだし。
昔より、回路の集積が進んでいるのは分かるけどねえ。

聴いてみると、前の機種より確かに細かい音がでる。
楽器の重なりや残響の方向などがよく分かる。
「なんとかレガートリンク」だの「ハイビット○○」だの、新技術のお陰か?
でも~。高い音にキラキラした感じがあって気になる。
素子や回路に金かけても、キャビネットなどの基本構造体が安っぽいと
いい音なんぞ、出るわけない。折角の「なんとかレガート」とやらも
これでは活きないぞ。第一、脚からしてが、ぷらっちっくじゃん!

そこで、薄い銅板や鉛板、銅箔テープを買ってきて、
足回りから固めてやる。スッカスカの脚の中身を埋めて鉛板を巻き、
天板に銅板を貼って鳴き止め、叩いても「ごん」と重い音が出るようにする。
電解コンデンサーの頭などに銅箔テープを貼り、横にも巻き付ける。
コンデンサーの足下にスペーサーをかませてふらふらしないようにする。
トレイ周りも固めたいが、特殊な機種なので諦める。(今回は、な)
総じて、1kgくらいは重量が増えたかもしれない。

おまけに「○ードオフ」で、電源ケーブルの太いヤツをジャンクの中から
探してきて交換してやった。
まあ、改造などとは呼べない「使いこなし」程度なのだが、
かなり音がまとまってきた、余計な高域の響きがなくなって、安っぽさが消えた。
まあ、設計者が考えた回路の音に、ちょっとは近づいたんじゃないかなと思う。
どうしても製品として掛けられるお金には限界があるから、
筐体や細かい部分などが、プラスチックや薄いパーツになるのはしようがないのだが。


「10万円程度では、CDプレーヤは成立しない・・・」

とあるかたのHPに、このような記述があった。
20万円クラスになれば、基本的な構造にもお金を掛ける余裕が出るが
10万円クラスではダメだ。というわけだ。
「10万円のCDプレーヤなのに?」と思ったが、今回、
自分で中を開けてみてそうかもな~、と思った。
バブルの頃の6~7万円台の方がよっぽどつくりがシッカリしてる。
この時代の名器は、今でもオークションでは人気だ。

もはや、CD専用機はほとんどない。
SACDやDVDとのコンパーチブルになってしまっている。
薄型だし、価格的にも2~3万円で新製品が入手できる。
だが、おいらはそれらの機械で音楽を聴きたいとは思わない。

所詮、再生音楽ではないか。
いくらお金を掛けても、生演奏にはかなわないんだし、安い機械でも
そこそこの音楽を聴けるのに何が、不満なのか?

「生演奏にはかなわないんだし」って、トコロだ!

最高の生には、再生音楽では得られないものが確かにあるし、
演奏会でしか得られない感興もある。
だが、すべての生演奏をあらゆる面で、良いコンディションで
聴けることは、そんない多くはないのだ。
ならば、再生音楽は、凡庸な生演奏を超える「何か」を持っていなければ
ならないし、あるはず、なのだ。

その再生音楽の「美点」を得るためには、ある程度の装置が必要に
なるのは当然、と、おいらは考えているのだ。


・・・というわけで、またまた、わけの分からない方向に
進んでしまいそうですが、そんなんでまた、続くことをもちまして
たけどんからの 新春のご挨拶に代えさせていただきます。

今年もよろしく お願いいたします。 ~(*⌒▽⌒*)
 

CD破壊2

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年12月28日(火)20時47分51秒
返信・引用
  いくら心がへたっていても、日々やるべきことはあり続ける。
いくつもの、心の重しを抱えたまま、平然と生きていく。
それが大人ってもんだ。
「PCで聴けばいいじゃん」。さらっと妹さんに言われた。
そりゃそうだけど、そうじゃない!(ふん)

と、とりあえずその夜、新しいCDプレーヤなどを調べてみた、ら驚いた。
「もう、CD専用機はほとんどナイ」のだ。
CDは、DVD、SACDなどと一緒に再生できる「ユニバーサル・プレーヤ」
しか、プレーヤの新製品がないのだ。
 (ノ; ̄◇ ̄)ノ  し、しらなかったあ~

そりゃ、20万だの50万、100万出すなら中級機や高級機はある。
だが、そりゃあまりに非現実的ってもんだ。
といって、4~6万円の安モン ユニバ・プレーヤで
いい音が出るとはどーしても思えない。
所詮、「汎用機は、専用機にはかなわん」のだ。これ常識!( ・`ω・´) b
と、いうわけでーまたも「おーくしょん」なわけ。

中古機CDプレーヤでも、80年代から90年代の名器は、
人気が高い。かつての9万円の製品が2~3万円で入手できる。
かつてバブル期の、物量をぶちこんだメーカーの商品は頑丈にでてきてるしな。
おいらの持ってる機種もあるが、どうせなら他のメーカーの音も聞いてみたいし、
できれば、自機よりは新しいものがいい。

中古屋も回ってみた。すると、かつて16万円だった機械が
「ジャンクコーナー」に9千円で置いてあったのを見つけた。
「CD鳴りました」とのコメントあり。リモコン、取説、当然なし。

どうする・・・多少のことならメンテナンスできるが・・・迷った。
これはドライブ部分が頑丈に出来ているし、レンズがプラスチックではなく
ガラス研磨によるものだ。使えれば・・・安いな。
だが、他のトラブルがあるかもしれん。
使えるプレーヤがある上で、ダメもとで買うのならいいかもしれんが、
冒険過ぎるな。
迷った末、買わずに帰った、翌日もふらりとその店に寄ってみる。
「あれ、もうナイ」。
売れてしまったようだ。
目を付けた人が他にもいたということだ。
前からなのか、それとも定期的に中古屋を回ってるような人がいるのかもしれん。
ま、その人はいい買い物をしたな。

買ったばっかりのヴィヴァルディのオペラ「グリゼルダ」を
ぱそこんで聴いた・・・ああ、あじけねー。
だが、こればっかりで聴いてたら、それはそれで不満もないのかも
しれない、とも思った。


さて、オークション。
どこのメーカーがいいのか? いやどこのメーカーも
名機は入札者が絶えない。たとえそれがジャンクでもだ。
「CDを読み込まない。トレーが出ない」でも入札者はいる。
おいらも、ちゃんとしたプレーヤがあるなら、それぐらいなら
直せる可能性が高いし、安くなるので買いたいところだが危険性もある。
今回は完動品を狙いたい。

専門誌などで、評価の高いD社製品を狙ったが、3件ほど高値更新され
取られた。落札するには予定していた金額ギリギリかそれ以上じゃないと
落とせないようだ。
いやいや、年末だから、なにやら切羽詰まった感が、おいらたちを
蝕んでいるのかもしれん。「今年中なんとか、ゲットするのだ!」的な。
それで金額がつり上がるのかも?

「今年中に落さねばならない必然性」など全くナイのに、だ。

落ち着け・・・。  (゚Д゚;≡゚Д゚;)(今年中に終わらせたい!)
 

CD破壊1

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年12月28日(火)20時42分29秒
返信・引用
  良い年の瀬をお迎えでしょうか。
今年は、どのような一年でありましたでしょうか?
良い一年でしたか? それはよかった・・・よかった。

おいらは、年賀状も出し終わって、あとは大掃除だけですが、
もうね・・・なんといいますか、クリスマス前からCD聴いてないっす。
音楽のない生活って、久しぶり。しかもこんなに長く。

おいらのCDプレーヤは、もう10年以上前の製品で、
あっちこっち改造してあるシロモノなんですけど、
数年前から、再生中にノイズが入ったり、トレイの閉まりが
悪かったりで、調子が悪かったんですけどね。
ネット見てたら、おいらのプレーヤの特徴的なトラブルが
載ってて、その解決法が書かれてたわけです。

トラブルというのは、いつも起こるわけでもないのですが、
起こる時には、まるでアナログ・レコードのように
「プチッ、プチッ」というノイズが乗ったり、ひどくなると
「ザザ~」とノイズが大きくなって、ついにはCDを認識しなくなるというもの。
もう、ピックアップが限界かな~とも思ったんですが、
それが実は、「ディスク・トレイ」の閉まりの悪さに原因があるから
駆動ベルト(ゴムバンド)の交換で直る・・・というのですな。

では・・・と、手動でトレイをシッカリ閉めてやると、あら不思議。
ノイズが乗らなくなった。読み取りにくかったCD-RやCDが、
まともに認識され、ちゃんと再生された。
「やっぱ、トレイとチャッキング(CDの保持)が問題だったんだ~」
そこで、ヤフオクで、補修用のトレイ駆動ベルト(ゴム・バンド)を
入手して、交換してみた・・・・やった。直ったよ。
+.(人´Д`*).+゜

もういい加減、新しいプレーヤにしないとダメかな~と
思ってたので嬉しかったのだが、ふと、心のどこかに、
「新しい製品の音も聞いてみたかったかも・・・」な思いもあったわけです。
これが、12月の上旬ごろ。

折角直ったのだから、もうすこし手を入れてやろうと
またバラして、ピックアップ内部のレンズのクリーニング。
ネット上で、電解コンデンサの頭に銅箔やアルミ箔を貼って、
振動とノイズ輻射を抑えると、音が良くなる的な記事を読んだので、
やってみた・・・ん? ちょっと音像がくっきりしたかな?
これはイケる! ピアノの輪郭や骨太さが出てきたゾ。

もう少しいじるところがあるから、やっちまうか。
と、電源部と駆動部のコネクターを外そうとしたら、固くて抜けない。
この部分はもろいので、いっそ半田ごてで抜いてしまってから抜いた
方がいい。
作業後、コネクターを基盤に差して、半田付けをする・・・と。
「つかない・・・」半田が流れていかない・・・。
何度も作業をしているうちに、基盤上のパターンが・・・溶けた。
 Σ( ̄□ ̄;)

しまった・・・やっぱ電機基盤用の先の細いこてじゃなきゃだめだったか?
何度か半田を流し込んで、組み上げて電源を入れた。
表示がヤケに明るい。「あれれれ?」電源を切った。
もう一度、やり直してみた・・・・。今度は点かない。
トレイは動くけど、CDが回転しない。
しまった・・・どこか過電流が流れて壊れたか?

( ̄ω ̄;) ・・・ヽ( ̄Д ̄)ノ こわしちまったい!

もう少しあがいてみたが、ダメ。
細いワット数の少ない半田ごて、買ってきてやったが、ダメ。
音楽が聴けねー。 ガ━━(゚Д゚;)━━ン!

だ、誰も悪くない。おいらが悪い。
せっかく直ってたのに、よけいな色気出して、さらに音質アップなど
たくらんだ。おいらが悪い。
よく確認しないで、コネクター引っ張ったおいらが悪い。
スピーカ・ケーブル接続用のふっといコテで半田付けしようとしたおいらが悪い。
・・・etc。

けっこう落ち込んだ。寝るまでの2時間くらい。
起きても、まだ後悔の残滓が残ってる。「何もせんと、音楽聴いてりゃ・・」
ま、少し時間が経てば、薄れていくさあ・・・。
 

当世流行劇場

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月30日(火)22時28分19秒
返信・引用
  1729年、50才のヴィヴァルディはカール6世に作品9「ラ・チェトラ」
(んー、たぶん「la cetra」で、竪琴の一種、リラのこと)を献呈している。
会見したのは、トリエステという港町。

「皇帝はヴィヴァルディと長い間音楽の話をなさいました。
 彼(ヴィヴァルディ)一人と二週間で話したことの方が、大臣達と二年間で
 話したことより多かっただろう、と、人々は話しております・・・」
(アントニオ・コンティ神父の手紙より)

その後自身がウィーンを訪れ、その他に他の国を訪問したのだろう。
ウィーン以外は記録が残っていないのだが、
ヴェネツィアに戻っても、彼はドイツ、オーストリア、フランス、スペインなどの
ヴェネツィア駐在外交官や、本国の君主、貴族たちと良好な関係をずっと続けて
いたということなのですが。

「・・・なのですが」というのは、
それが喜ばしいお話しだとは考えない人たちがいた、ということですな。

この時代、王侯貴族に曲を献呈したり、彼らとお近づきになろうとするのは
音楽家稼業として当然のこと。だがヴィヴァルディは
「ヴェネツィア」の音楽家であったのだった。

この時代、イタリアという統一された国家は存在していなかった。
ナポリ王はスペイン王であり(副王を派遣し統治していた)、
ナポリ王国は外国人の王を頂く国をであったのだ。
南のナポリ王国ほか国土の半分ほどはスペイン、そして教皇領、
北部は共和国や貴族領だが、オーストリア、フランスの影響を強く受ける
不安定な情勢にあった。

ヴェネツィアは、トルコとの戦いに敗北して地中海の覇権を失ない、
17世紀に入ると、イギリス、オランダがアドリア海域に進出、
商業取引の拠点は、アドリア海のほかの港に移ってしまう。
10年間でヴェネツィアの関税収入は40%も減少。
政府は、アドリア海の商業利益の回復にやっきになっておりました・・・とさ。

で、ヴェネツィア政府は、ヨーロッパ各地の宮廷や町、港などいたるところに
「密偵(みってい)」を派遣。情報収集など行っていたわけです当然!
そんな中、ヴィヴァルディがカール6世と会った「トリエステ」とは、
ヴェネツィアの北方に位置するアドリア海の良港であり、
オーストリアの支配下にあり、カール6世により「自由港」とされ
オーストリアの東インド会社の根拠地とされた町でした。
このトリエステ振興策は、ヴェネツィア共和国を刺激せずにはいませんな。


この時の会見が直接の原因で、ヴィヴァルディがどうこう
されたと言いたいわけではないのですが、
共和国自体が斜陽となればなるほど、国民は享楽にうつつを抜かし
反対に政府は猜疑心の塊、となるわけです。
このような彼の行動が、共和国政府にとって面白いはずがないのです。
ヴェネツィアでは貴族(共和国なのに)が、外国人と接触を持つことは
自国の利益を危険に晒す「重大な犯罪」と考えられていた時代でした。
カール6世との会見は別にしても、
共和国内でのヴィヴァルディと各国要人との行動は
密偵の報告書として記録に残されているということです。


以上は、「当世流行劇場」の「あとがき」からの抜粋をもとに書きました。
訳者の小田切慎平氏は、<あくまでもフィクション>として、
ヴィヴァルディが政府からヴェネツィアを去るよう脅迫される顛末を
さらに過激に書いておられますので、機会があればご一読くださいませ。

まあ、当時は、暗殺など当たり前のように行われていた時代であり、
民間人でも暗殺者をやとうことが比較的容易にできたほどの時代でした。
政府がその気になれば、一音楽家を消し去ることなど造作もないこと。
実際に著名なカストラート、シファーチェが、女性問題で暗殺されています。
実際に政府からヴィヴァルディが睨まれていたのだとしても、
命を奪うまでもなかったのが、それとも出来なかったのか・・・?

確証はありませんが、政府から共和国を自主的に出るよう脅迫されていたのか?
「当世流行劇場」の著者ベネデットはヴェネツィアを去り、1739年には
死亡していましたが、兄のアレッサンドロが健在であり、彼が
ヴィヴァルディ追放の黒幕・・だったのか?

そんな想像をさせるほど、ヴィヴァルディのヴェネツィアの去り方、
(あわてて自作を叩き売って、金に換えた)、ウィーンでの客死など、
ヴェネツィア政府による危険分子の追放、と考えたくなる
ような状況ではあります。


ここまで書いてきて、ふと思ったのですが、
この時代の音楽家の状況を考えるのに、政治状況の重要性を感じましたね。
高校とかの世界史でやったはずなのですが、ほとんど覚えてないってか
理解してなかったのか。

「神聖ローマ帝国」ってのは、何なのか?
なぜ、ドイツ、イタリアが統一が遅れたのか。スペイン継承戦争に
ナポリ王国が戦場になった理由は・・・などなど。
ま、おいおいやっていきますか。とりあえず次回は、
ヘンデルとヴィヴァルディのオペラ作品自体にもどる・・・つもりでおりますが。

 

ヴェネツィアとナポリ6

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月24日(水)20時19分6秒
返信・引用
  つい、「ロデリンダ(ヘンデル)」の日本盤CDのブックレットを
ヤフオクで落としてしまいましたよ。 ( ̄ω ̄;)日和ったな


おいらが持ってるのは輸入盤だが、まあ辞書引きながら歌詞カード
よむのもなんだしーとか思ったし、なんといっても500円だし。
終了2時間前でも誰もいねー、と思って最低価格500円で入れといた。
1時間前、30分前になっても誰も来ない。
「ま、そりゃそうだよな」と思ってましたよ、ええ。
そしたら、5分前ごろになって「高値更新」だと?
なんじゃそら?・・・「510円」?

相手がどの位で入れたのかは不明(表示は、前の入札価格より10円だけ高く表示されるだけ)だ。
そこでおいらは、700円で入れてみた。「あなたが最高落札者です」・・・ほっ。
表示価格520円・・・・ああ、正直に510円で入れてたのかそうか。

ラスト5分を切ったので、これ以降高値入札があるとさらに5分延長になる。
みてみると、じりじりと最高価格が上がっている。10円ずつだ。
530円、550円・・・だが、おいらの700円には届かないので、おいらが最高値入札者のまま。
2回ほど、延長があったが、690円まで落札価格は上がって、ついにおいらに落ちた。
700円以上の入札はなかったからだ。入札数は12まで上がった。
「あと一歩、がんばりが足りなかった、な」。
しかし、ちょっと相手が気の毒な感じがしないでも ない・・・ね。 (。・ω・。) うーん

数は少ないが、ヘンデルやヴィヴァルディなどのオペラ作品に注目している
人がいるな、というのは普段から感じていた。
めぼしい作品が廉価で出品されると、必ず落札されているからだ。
だが、おいらが「これいい作品なのにな~」というのがずーっと残っていたりもする。
著名でないからか? (あとで、お勧め作品として紹介しましょ)
落札者は学生さんなのかな?とか、いろいろ思ったりもして。



「当世流行劇場(未来社)」という本がある。
「転換期を読む8 当世流行劇場 ベネデット・マルチェッロ著」本体1,800円
 副題 ~18世紀ヴェネツィア、絢爛たるバロック・オペラ制作のてんやわんやの舞台裏~。

これは18世紀のヴェネツィア音楽やバロック・オペラの解説書などには
必ずといっていいほど引用されている本なのだ。
この著者のベネデット・マルチェッロとは、ヴィヴァルディと同時代人の音楽家、
であるばかりか、貴族であり、弁護士、ヴェネツィア共和国の要職を歴任した政治家でもある。

このベネデットは、その兄のアレッサンドロとともにけっこう著名な音楽家なのだが、
その彼がこの本で描いているのは、オペラ劇場に巣くう人々や、オペラ上演にまつわる
人のあれこれ、入場券の販売係から歌手の母上、くじ売り、声楽の先生、大工と鍛冶屋
まで、それらの人々の劇場を中心とした生態なのだ。
彼は、それらの人々を、面白おかしく皮肉を込めて活写している。

実名は出されていないが、モデルとなったオペラ劇場とは「サンタンジェロ劇場」。
「作曲家」「劇場支配人」とは、ヴィヴァルディその人を指していることは確実だ。
つまりこの著作は、「ヴィヴァルディ一派のやり口」を告発し、
皮肉を込めて嘲笑っているのだ。


この「Il teatro alla moda(流行の劇場:原題)」を書いた背景には、
彼の実家が所有していた土地を、ヴィヴァルディの父と前任の経営者が借り(7年間の契約)、
劇場を建てたのだが、期限を過ぎても返さず、
次のヴィヴァルディの時代になっても返還せず、訴訟問題にまでなった問題があった。
前の経営者が劇場入場料を下げたため、他の劇場まで値下げを余儀なくされた。
(劇場の格が下がるのを恐れたマルチェッロは値上げ派に属していた)などの
問題まであったわけですな。
積もりに積もった怨念をぶちまけた、とも言えるわけです。

その辺を割り引くとしても、この本に描かれた劇場の様子や、
それぞれの登場人物の像には、事実の告発の部分も多いように思われる。
なぜなら、裏方の人物像(作曲家や劇場支配人つまりヴィヴァルディ)の以外は、
当時の人々が読めば「あーそうだよな~」と頷ける話ばかりだと思われるからだ。
誰でもが触れたことがある人物たちの姿に関してバレる嘘を書いて、何になるだろう?

そうしてみると、この当時のオペラ劇場とはまさに
社交場であり、ゲームセンターであり、密談密会の場であり、食堂、飲み屋、
娼家であるという、あらゆる快楽と欲望がうずまいていた場所なのだ。
身分の低い者から、仮面とマントを羽織った貴族まで・・・。
おそらく、現代の音楽愛好家などは、とても立ち入れる場所ではない。。
まず、その内部の熱気と臭い。とても耐えられそうにないだろう。
所構わず、聞こえるおしゃべりと奇声。上の席から投げられるマカロニ。
そして出される得体の知れないシャーベットや飲み物・・それも市価の4倍の価格で。

このような切った張ったの現場を取り仕切っていたヴィヴァルディという人物は、
本当に、従来言われていたような病気がちな人間だったのだろうか・・・?


彼が病弱だったかどうかはさておき、持病を持っていたことは確かなようだ。
そうだとしても、このような生き馬の目を抜くヴェネツィアの劇場を仕切り、
司祭職との二足のわらじを履くにはかなりのバイタリティ、そして
庇護者(パトロン)に対して泣きつく演技力(文筆力)も持ち合わせていた
ということなのだろう。

そんな彼も、1740年にはヴェネツィアを捨て、オーストリアへ向かう。
かつて面識を得て好意を得たことある神聖ローマ皇帝(←この言い方もなんだが)
カール6世の庇護を求め、何らかの地位を得ようとしてオーストリアへ向かう。
この辺りについて様々な書籍では、新しもの好きのヴェネツィア人たちに
飽きられてしまい。ヴィヴァルディはもう過去の存在とみなされるようになった
からだ、と書かれている。

たのみのカール6世は急死した後であり(直系男子を残さなかったため
マリア・テレジアが家督を継ぎ、夫のロートリンゲン家が神聖ローマ皇帝位を
継ぐことになる:オーストリア継承戦争)。
かの地で失望したヴィヴァルディは翌1741年に客死してしまい。
二度とヴェネツィアへ帰ることはなかった。

だが・・・ヴィヴァルディがヴェネツィアを離れたのは、聴衆から飽きられ
見捨てられたからだけ、なのだろうか?
それにしては、彼の旅立ちの前の行動がいささか、「あわてるような」
性急な印象をあたえるのだが。(自作を売り飛ばして金に換えたりとか)

ここからは確証の無い「お話し」(ちょっと陰謀論っぽい)なのだが、
まったく根拠のないわけではない、「推測」になる。
だが、モーツァルト暗殺のような謎に満ち満ちたミステリーめいた話ではない。
いかにも、ありそうな話ではあるのだが。
もっとも、考えてみれば、ヴィヴァルディの遺体はウィーンの「市民養老院墓地」
に埋葬されたのだが、具体的な場所は不明。

つまり、ヴィヴァルディとモーツァルトは、おそらく約1マイル
(約1,600m)しか離れていない場所に、埋葬されているのだ。

(つづく・・・タイトル変えるか)
 

ヴェネツィアとナポリ5

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月16日(火)21時40分26秒
返信・引用
  うー、寒いですね。
だが、まだストーブには早い。

イタリア語やってて、動詞なんかの語尾変化が大変いやらしく大変なのですが、
考えてみると、全体的な音を揃える、

(questo libro『この本』: 男性名詞は「o」で揃える)
(questa borsa『このカバン』: 女性名詞は「a」で揃える)

のように、音的に揃えようとする姿勢は分かりやすいし、
その他、過去形(助動詞+過去分詞)の時、
過去分詞がavere(英語のhave)を取るか、essere(be動詞)を取るか、
それによって、過去分詞が語尾変化するかしないかも、
なんか、考えてみると、「言葉ってそんなもんだよな」って気がしてきた。
(イタリア語とかやってない人には、何のこっちゃ、だ)

動詞の語尾変化も、いきなり「i」を入れたりとか、混乱するけど
これとかにも、一貫している「ある原則」がある気がする。それは・・・

 「その方が、言いやすい(発音しやすい)じゃん」だ! ( ・`ω・´) b見切った

その他前置詞と定冠詞の結合や、短縮形があるのも、
「その方が言いやすい」だの「その方が、自然じゃん」と、イタリア人は
考えていると思う。

外国語を習得する場合、このような外国語のしくみを「文法」として一般化し、
変化の規則を法則として覚えようとすると、こりゃ、本当にタイヘンだ。
使ってる当事国の人々は、そんなこと知ったこっちゃない。
その方が、自分たちにとって自然だと思っているわけだからね。
彼らの、「コノ方が自然」ってやつを分かるくらいに、かの言語に慣れないと
語学(やっぱ学問かよ!)の習得は、非常に苦痛の連続なのだ。
(日本語を考えてくださいよ日本語を。漢字もあるでよ)

イタリア語やドイツ語考えると、
「英語って、簡単なコトバだよな~」と、思えてくる気さえする。
その半面、イタリア語に較べてなんだか「血が通ってない」ような
気さえするから不思議だ。
これくらい複雑な方が「コトバとして自然なんじゃねーかなー」、なんてね。

もっとも、そう言い切れるほど英語に精通してるわけでもないし。
学生時代には十分、苦しめられてはいたんだけどね。
その割に、読み書きも話も、ロクにできませんね。
英語を貶めようという気は、ありませんよ。
英語やってた「基礎」があるからこそ、イタリア語やドイツ語の
習得も随分、助けられているのは、事実なんだし ね。

あ、いやいや、習得なぞしてませんな。( ̄ω ̄;) やれやれ


さて、ヴィヴァルディは、
「パン屋のせがれだったが音楽家になった」父親、
ジョバンニ・バッティスタからヴァイオリンの手解きを受けましたが、
最初から聖職に就くよう育てられたようで、15才で聖職につきます。
喘息(ぜんそく)か狭心症の持病があったようですが、
病弱だったかどうかはよくわかりません。
ま、勉強のできる頭のよい子供であったのは、確かなようです。

聖職者と音楽家という「二足のわらじ」は、当時としては、
公的には誉められることではないにせよ、それほどめずらしい話では
なかったようではあります。が、
彼は、この「二足のわらじ」によって、様々な問題も起こしています。

「二足のわらじ」自体が、問題なのではなく、
音楽家という職業によって司祭の職務に支障をきたすことがあったということ、
その上、病気の問題も重なったわけです。(よく聞く話)
ヴィヴァルディは、自分の庇護者に対して、
病気による出費を訴えたり、ミサを三度、完遂できず祭壇を降りた、などと
いうことも訴えています。が・・・。
病気が、本当はどのくらい職務に影響を与えていたのかは、ちと疑問でもあります。

彼は、音楽だけでなくスピーチの才能もあったようで(司祭ですし)、
アンナ・ジロー(Anna Giraud) という女性歌手と、彼女の妹(彼の世話役として)を
引き連れ、ヨーロッパを旅行しまくっていたことについて、
(多分、二人とは救済院のでの、娘時代からの知り合い)
醜聞が教会の耳に入ってしまう。彼はそれに対して、感動的な弁護をしたそうな・・・。
旅行については、彼なりの目的と事情があったのでしょう、が。


時間は前後しますが、
ヴィヴァルディは、最初、器楽作曲家としてヨーロッパ世界で有名になります。
作品1、2は、ヴェネツィアで出版しましたが、作品3よりアムステルダムの
近代的出版社「ロジェ」社から、全ヨーロッパに向け作品を発表し、
それが北ヨーロッパにおけるヴィヴァルディの知名度を一気に広めることになります。

しかし、そこはヴェネツィアっ子、オペラを書かずして、何が音楽家でしょうか。
彼の父親は、凡庸なオペラ作曲家でしたが、彼は1713年、「離宮のオットー大帝」
という作品を上演し、オペラ業界に本格参入します。
(ヘンデルの「アグリッピーナ:1709年」より遅い)

以後1739年までの25年間で、50曲以上のオペラを作曲します。
が、彼自身の言葉によれば「90曲以上は書いた」とのことですが、
この部分も含めて、やや彼には大言壮語(ビック・マウス)の傾向が
あったようなので、本当のところは、分かりません。

そんなオペラ創作のさ中、彼はベネツィアの「サンタンジェロ劇場」の
「劇場支配人(公的には劇場作曲家)」になります。
これがまた・・・因縁ある劇場でありまして・・・トラブル、はぁ。(つづく)
 

ヴェネツィアとナポリ4

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月 4日(木)20時24分35秒
返信・引用
  ヘンデルのオペラへの情熱は、王立アカデミーが失敗したのちにも続いた。
だが、もはや聴衆の関心がイタリア・オペラから離れ始め、
自国語によるオラトリオの方へ、関心が移り始めていた・・・。

彼の後半生から、後の時代までヘンデルの名が栄光に浴したのは
彼のオラトリオ作品によるところが大きいと思われる。
ハイドンやベートーヴェンが刺激を受け、彼を大家と認めたのは、
オペラによるものではなかった。

・・・考えてみれば、

ヘンデルがバッハとならぶ、「バロック音楽の大家」
と言われながらも、
代表作といえば、一般的には「水の上」と「はなび」と「ハレルヤ」しか知られていない。
これでは、バッハと比較するのもあまりと言えばあまりではないか。
おいらも、彼が生前から名声を得ていた作曲家だとは知っていたが、
他に何を作曲していたのか、まったく知らなかった。(あ、「鍛冶屋」もあった)

ヘンデルのオペラは、現代において演奏するには、あまりにも
ドラマがなく退屈であって、演出家による現代風アレンジがないと
上演できない・・・とかなんとか?
よって、バロック・オペラの決まり事も知らない「演出家」によって、
現代での鑑賞に耐えるよう
すばらしく切り刻まれ、短縮され、奇妙な舞台設定のもとに上演されることになった。
この「演出家」による。ワケの分からない芸術上の主張と、
演出上の都合とやらによって、
バロック・オペラはめちゃくちゃに作り替えられているのが、これまでの現状なのだ。

ま、もっともバロック・オペラを受け入れるには、
聴衆の方も、バロック・オペラについての知識がないことには、
「すばらしいアリア」のみにしか、
関心が向かないという状況に変わりはないだろうが。


この文章のどこが「ヴェネツィアとナポリ」なんだよ?

それはさておき、
要は、ヘンデルもロンドンで生きるのに彼なりに必死だったってことだ。
バッハが、田舎宮廷から自由都市に移って、わからずやの参事会や、
できのわるい合唱隊をかかえてヒーヒー言ってたのに、
片や「ヘンデルは、何百人もの訓練された合唱団を自由に出来た」という
記述を読んで、バッハが二回にわたって会おうとしたのに無下にした
とんでもねーやつ、という印象だったのだが、そうではなかったわけだ。

バッハがヘンデルに会おうとしたのは、1719年と1729年の2回だが、
それはちょうど、第一次王立アカデミーの、立ち上げ時と破産直後に当たる。
ヘンデルとしては、大陸で歌手をスカウトするという、オペラの心臓部分に
関わる重要な仕事の最中であり、2回目は、さらにアカデミーの再起と
病床中の母親の見舞いが加わっていたわけだ。

ヘンデルとしては辞退せざるを得なかったのも、当然かも知れな・・・あ
1回目は、ヘンデルとバッハはちょうど行き違いになったんだっけか。


ここまでいろいろな本を読んだりしてきたが、
今ひとつヘンデルの人生絵巻、というか人間像がはっきりイメージできない。
バッハに較べれば、書籍の数も少ないのだが、それだけではない。
ヘンデル自身、あまり自分の生活に関することを残していないのだ。

手紙などは残ってもいるが、彼自身ロンドンでどのような事を
考えながらオペラを作曲し、またオラトリオに移行していったか。
彼はプロテスタントだったが、英国国教会の組織に加わっていたことなど、
彼の人生観をイメージするには、データが少ないような気がする。
というか、研究書はそれなりに多いが、バッハのような「偉人伝風」の
分かりやすくイメージしやすい読み物が無い、というところに依るのかもしれないが。

 めちゃくちゃな大食いで、大柄、すごいタフ。
 卒中起こして白内障で失明したが、バッハの死を早めた
 いんちき医者の治療を乗り越えて生き延び、栄光にまみれて
 希望通り、ウエストミンスターに葬られた・・・・。(なんぞ、それ?)


さて、一方ヴィヴァルディの方は、もっと状況が悪い。
一般人が読めるような研究書の類もない。
数年間までの音楽史を扱った本などでは、ヴィヴァルディは
当然のように、「器楽作曲家」としか扱われていない。

ヘンデルもそうだが、ヴィヴァルディの声楽作品、オペラ作品の
復興は、まだまだこれからということなのだろう。

最後期のヴェネツィア・オペラの代表的作曲家といえば、
ヴィヴァルディとアルビノーニ。

おいらも含めてみなさん、「へ~え?」ってなもんでしょうな。
イタリアの作曲家といえば、古いところとロッシーニ以降を除けば、
「バロック期は、全て器楽作曲家」。というイメージだと思いますね。
これは音楽教育をドイツから輸入した日本特有のもの、なのかは知りませんが、
ドイツ人の「ソナタ形式こそ最高」音楽史観を
当たり前すぎるくらい、当たり前に教育されたせいでしょうな。

現代の日本の歴史教科書が、「唯物史観(あのマルクスの)」、
「階級闘争史観」の歴史学者によって、今も書かれているのと同じですわな。
(バカバカしいどころか、極めて有害)

というわけで~。ヴィヴァルディとはどんな人生を送ったのか?
なのだが、これがあなた、資料が少ないのさ。
なんだか、「貧窮院の女子たちに器楽を教え、曲を提供した」、
「司祭だった」、「病気のせいでミサをしょっちゅう中断した」とか、
「四季」・・・でしょうな。

ナポリもヴェネツィアと同様なんですが、
「貧窮院」とか「養育院」とか多かったんですな。
というのは、私生児、捨て子が溢れかえっていたワケで。
公的な機関がそれを養育する施設を設けた、ということなわけです。
ヴェネツィアなどの風紀の乱れは、行くところまで行っていたということですな。

そして、ヴィヴァルディには、もう一つの顔があります。
それは「劇場経営者」としての、一面でありました・・・。

司祭なのに?(・・・つづく)
 

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