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ヴェネツィアとナポリ4

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月 4日(木)20時24分35秒
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  ヘンデルのオペラへの情熱は、王立アカデミーが失敗したのちにも続いた。
だが、もはや聴衆の関心がイタリア・オペラから離れ始め、
自国語によるオラトリオの方へ、関心が移り始めていた・・・。

彼の後半生から、後の時代までヘンデルの名が栄光に浴したのは
彼のオラトリオ作品によるところが大きいと思われる。
ハイドンやベートーヴェンが刺激を受け、彼を大家と認めたのは、
オペラによるものではなかった。

・・・考えてみれば、

ヘンデルがバッハとならぶ、「バロック音楽の大家」
と言われながらも、
代表作といえば、一般的には「水の上」と「はなび」と「ハレルヤ」しか知られていない。
これでは、バッハと比較するのもあまりと言えばあまりではないか。
おいらも、彼が生前から名声を得ていた作曲家だとは知っていたが、
他に何を作曲していたのか、まったく知らなかった。(あ、「鍛冶屋」もあった)

ヘンデルのオペラは、現代において演奏するには、あまりにも
ドラマがなく退屈であって、演出家による現代風アレンジがないと
上演できない・・・とかなんとか?
よって、バロック・オペラの決まり事も知らない「演出家」によって、
現代での鑑賞に耐えるよう
すばらしく切り刻まれ、短縮され、奇妙な舞台設定のもとに上演されることになった。
この「演出家」による。ワケの分からない芸術上の主張と、
演出上の都合とやらによって、
バロック・オペラはめちゃくちゃに作り替えられているのが、これまでの現状なのだ。

ま、もっともバロック・オペラを受け入れるには、
聴衆の方も、バロック・オペラについての知識がないことには、
「すばらしいアリア」のみにしか、
関心が向かないという状況に変わりはないだろうが。


この文章のどこが「ヴェネツィアとナポリ」なんだよ?

それはさておき、
要は、ヘンデルもロンドンで生きるのに彼なりに必死だったってことだ。
バッハが、田舎宮廷から自由都市に移って、わからずやの参事会や、
できのわるい合唱隊をかかえてヒーヒー言ってたのに、
片や「ヘンデルは、何百人もの訓練された合唱団を自由に出来た」という
記述を読んで、バッハが二回にわたって会おうとしたのに無下にした
とんでもねーやつ、という印象だったのだが、そうではなかったわけだ。

バッハがヘンデルに会おうとしたのは、1719年と1729年の2回だが、
それはちょうど、第一次王立アカデミーの、立ち上げ時と破産直後に当たる。
ヘンデルとしては、大陸で歌手をスカウトするという、オペラの心臓部分に
関わる重要な仕事の最中であり、2回目は、さらにアカデミーの再起と
病床中の母親の見舞いが加わっていたわけだ。

ヘンデルとしては辞退せざるを得なかったのも、当然かも知れな・・・あ
1回目は、ヘンデルとバッハはちょうど行き違いになったんだっけか。


ここまでいろいろな本を読んだりしてきたが、
今ひとつヘンデルの人生絵巻、というか人間像がはっきりイメージできない。
バッハに較べれば、書籍の数も少ないのだが、それだけではない。
ヘンデル自身、あまり自分の生活に関することを残していないのだ。

手紙などは残ってもいるが、彼自身ロンドンでどのような事を
考えながらオペラを作曲し、またオラトリオに移行していったか。
彼はプロテスタントだったが、英国国教会の組織に加わっていたことなど、
彼の人生観をイメージするには、データが少ないような気がする。
というか、研究書はそれなりに多いが、バッハのような「偉人伝風」の
分かりやすくイメージしやすい読み物が無い、というところに依るのかもしれないが。

 めちゃくちゃな大食いで、大柄、すごいタフ。
 卒中起こして白内障で失明したが、バッハの死を早めた
 いんちき医者の治療を乗り越えて生き延び、栄光にまみれて
 希望通り、ウエストミンスターに葬られた・・・・。(なんぞ、それ?)


さて、一方ヴィヴァルディの方は、もっと状況が悪い。
一般人が読めるような研究書の類もない。
数年間までの音楽史を扱った本などでは、ヴィヴァルディは
当然のように、「器楽作曲家」としか扱われていない。

ヘンデルもそうだが、ヴィヴァルディの声楽作品、オペラ作品の
復興は、まだまだこれからということなのだろう。

最後期のヴェネツィア・オペラの代表的作曲家といえば、
ヴィヴァルディとアルビノーニ。

おいらも含めてみなさん、「へ~え?」ってなもんでしょうな。
イタリアの作曲家といえば、古いところとロッシーニ以降を除けば、
「バロック期は、全て器楽作曲家」。というイメージだと思いますね。
これは音楽教育をドイツから輸入した日本特有のもの、なのかは知りませんが、
ドイツ人の「ソナタ形式こそ最高」音楽史観を
当たり前すぎるくらい、当たり前に教育されたせいでしょうな。

現代の日本の歴史教科書が、「唯物史観(あのマルクスの)」、
「階級闘争史観」の歴史学者によって、今も書かれているのと同じですわな。
(バカバカしいどころか、極めて有害)

というわけで~。ヴィヴァルディとはどんな人生を送ったのか?
なのだが、これがあなた、資料が少ないのさ。
なんだか、「貧窮院の女子たちに器楽を教え、曲を提供した」、
「司祭だった」、「病気のせいでミサをしょっちゅう中断した」とか、
「四季」・・・でしょうな。

ナポリもヴェネツィアと同様なんですが、
「貧窮院」とか「養育院」とか多かったんですな。
というのは、私生児、捨て子が溢れかえっていたワケで。
公的な機関がそれを養育する施設を設けた、ということなわけです。
ヴェネツィアなどの風紀の乱れは、行くところまで行っていたということですな。

そして、ヴィヴァルディには、もう一つの顔があります。
それは「劇場経営者」としての、一面でありました・・・。

司祭なのに?(・・・つづく)
 
 
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