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ヴェネツィアとナポリ5

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年11月16日(火)21時40分26秒
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  うー、寒いですね。
だが、まだストーブには早い。

イタリア語やってて、動詞なんかの語尾変化が大変いやらしく大変なのですが、
考えてみると、全体的な音を揃える、

(questo libro『この本』: 男性名詞は「o」で揃える)
(questa borsa『このカバン』: 女性名詞は「a」で揃える)

のように、音的に揃えようとする姿勢は分かりやすいし、
その他、過去形(助動詞+過去分詞)の時、
過去分詞がavere(英語のhave)を取るか、essere(be動詞)を取るか、
それによって、過去分詞が語尾変化するかしないかも、
なんか、考えてみると、「言葉ってそんなもんだよな」って気がしてきた。
(イタリア語とかやってない人には、何のこっちゃ、だ)

動詞の語尾変化も、いきなり「i」を入れたりとか、混乱するけど
これとかにも、一貫している「ある原則」がある気がする。それは・・・

 「その方が、言いやすい(発音しやすい)じゃん」だ! ( ・`ω・´) b見切った

その他前置詞と定冠詞の結合や、短縮形があるのも、
「その方が言いやすい」だの「その方が、自然じゃん」と、イタリア人は
考えていると思う。

外国語を習得する場合、このような外国語のしくみを「文法」として一般化し、
変化の規則を法則として覚えようとすると、こりゃ、本当にタイヘンだ。
使ってる当事国の人々は、そんなこと知ったこっちゃない。
その方が、自分たちにとって自然だと思っているわけだからね。
彼らの、「コノ方が自然」ってやつを分かるくらいに、かの言語に慣れないと
語学(やっぱ学問かよ!)の習得は、非常に苦痛の連続なのだ。
(日本語を考えてくださいよ日本語を。漢字もあるでよ)

イタリア語やドイツ語考えると、
「英語って、簡単なコトバだよな~」と、思えてくる気さえする。
その半面、イタリア語に較べてなんだか「血が通ってない」ような
気さえするから不思議だ。
これくらい複雑な方が「コトバとして自然なんじゃねーかなー」、なんてね。

もっとも、そう言い切れるほど英語に精通してるわけでもないし。
学生時代には十分、苦しめられてはいたんだけどね。
その割に、読み書きも話も、ロクにできませんね。
英語を貶めようという気は、ありませんよ。
英語やってた「基礎」があるからこそ、イタリア語やドイツ語の
習得も随分、助けられているのは、事実なんだし ね。

あ、いやいや、習得なぞしてませんな。( ̄ω ̄;) やれやれ


さて、ヴィヴァルディは、
「パン屋のせがれだったが音楽家になった」父親、
ジョバンニ・バッティスタからヴァイオリンの手解きを受けましたが、
最初から聖職に就くよう育てられたようで、15才で聖職につきます。
喘息(ぜんそく)か狭心症の持病があったようですが、
病弱だったかどうかはよくわかりません。
ま、勉強のできる頭のよい子供であったのは、確かなようです。

聖職者と音楽家という「二足のわらじ」は、当時としては、
公的には誉められることではないにせよ、それほどめずらしい話では
なかったようではあります。が、
彼は、この「二足のわらじ」によって、様々な問題も起こしています。

「二足のわらじ」自体が、問題なのではなく、
音楽家という職業によって司祭の職務に支障をきたすことがあったということ、
その上、病気の問題も重なったわけです。(よく聞く話)
ヴィヴァルディは、自分の庇護者に対して、
病気による出費を訴えたり、ミサを三度、完遂できず祭壇を降りた、などと
いうことも訴えています。が・・・。
病気が、本当はどのくらい職務に影響を与えていたのかは、ちと疑問でもあります。

彼は、音楽だけでなくスピーチの才能もあったようで(司祭ですし)、
アンナ・ジロー(Anna Giraud) という女性歌手と、彼女の妹(彼の世話役として)を
引き連れ、ヨーロッパを旅行しまくっていたことについて、
(多分、二人とは救済院のでの、娘時代からの知り合い)
醜聞が教会の耳に入ってしまう。彼はそれに対して、感動的な弁護をしたそうな・・・。
旅行については、彼なりの目的と事情があったのでしょう、が。


時間は前後しますが、
ヴィヴァルディは、最初、器楽作曲家としてヨーロッパ世界で有名になります。
作品1、2は、ヴェネツィアで出版しましたが、作品3よりアムステルダムの
近代的出版社「ロジェ」社から、全ヨーロッパに向け作品を発表し、
それが北ヨーロッパにおけるヴィヴァルディの知名度を一気に広めることになります。

しかし、そこはヴェネツィアっ子、オペラを書かずして、何が音楽家でしょうか。
彼の父親は、凡庸なオペラ作曲家でしたが、彼は1713年、「離宮のオットー大帝」
という作品を上演し、オペラ業界に本格参入します。
(ヘンデルの「アグリッピーナ:1709年」より遅い)

以後1739年までの25年間で、50曲以上のオペラを作曲します。
が、彼自身の言葉によれば「90曲以上は書いた」とのことですが、
この部分も含めて、やや彼には大言壮語(ビック・マウス)の傾向が
あったようなので、本当のところは、分かりません。

そんなオペラ創作のさ中、彼はベネツィアの「サンタンジェロ劇場」の
「劇場支配人(公的には劇場作曲家)」になります。
これがまた・・・因縁ある劇場でありまして・・・トラブル、はぁ。(つづく)
 
 
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