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ヴェネツィアとナポリ2

 投稿者:たけどん  投稿日:2010年10月14日(木)22時13分16秒
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  んまー、トラブルはところ嫌わず、いろいろありますな。
誰でもそうなんでしょうけど、複合的にやってきたりもしますな。
今年は夏前に「眼底出血」起こして、医者から
「血圧の上がることひかえい!」と言われまして、この夏は例年の
半分から3分の2くらいしか泳いだり、走ったりしてません。
ひたすら、ジョギングと水泳はクロールのフォームの改良でしたな。

ま、症状は収まりつつあるようですけど、毎年年齢は重なるわけですし、
病気など、気をつけているようでも、いつも、突然ですわ。
それでも、こういう機会に、基本の見直しができたのは、ヨカッタと(思え)。
いつの間にか、分かっているつもりが、おざなりになってることも多いなと
実感したりもしますな。
夏が終われば、一年の終わりに向かって、なにやら
問題が、波の如く寄せては返し、返しては寄せる・・・。
荷物を背負い「はあはあ」言いながらも、淡々と日常をこなしていく、
それが大人ってもんです。が・・・(楽じゃないですな大人は)

イタリア語も、「近過去」、「再帰動詞の過去」、「半過去」だの、
avereは間接目的語を取るだ、essereが直接目的語取るだの、
avereは活用するが過去分詞は活用しない、
essereは過去分詞も性と数で活用するだの、
o(`ω´*)o「うき~~~!」状態ですが、(慣れ慣れ・・・)

Quando Caterina e tornato a casa, sua mader cucinava.
(カテリーナが家に帰った時、彼女の母は料理していた)

・・・んで、オペラの歌詞カードが読めるようになるのは、いつの日になるのかね?


ま、17世紀のバロック・オペラは、つまりイタリア・オペラなのだが、
中心地は「ヴェネツィア」。ローマも盛んであったが、教皇の命令で
1700年から約10年間、オペラ上演が禁止されてしまう。
中心地はやがて「ナポリ」に移っていくことになるのだが、
17世紀から、18世紀中盤にかけて、ヴェネツィアとナポリは重なる形で
オペラ活動が行われていたことになる。

ヴェネツィアは共和国として、かつての栄光を失い没落傾向にあり、
絶頂期から爛熟期、衰退へと向かっており、1797年(1800年を待たずに)
共和国は滅亡する。
ナポリ派オペラの開祖と言われるアレッサンドロ・スカルラッティは、
17世紀後半(1679年ローマからナポリ)からオペラ活動を開始。

ここでヴィヴァルディとヘンデルを加えてみると、それぞれの
イタリアに於けるオペラ創作の開始時期は、

 ヘンデル、1707年~(ローマ)
 ヴィヴァルディ、1713年~(これは意外!)となる。

A・スカルラッティは、ヴィヴァルディやヘンデルよりも世代が上。
ローマからナポリに移ってから、オペラに様々な改革を行ったが、
ヴェネツィアにおいても、スカルラッティと同様の形式でオペラは
作られていたのである。
ただ、ヴェネツィアは国家の趨勢が、爛熟期から堕落の一途を辿り
勢いを無くしていった。(商売にならなければ、みな逃げ出す)
対して、ナポリは政治的な混乱はあっても、外国に対する
オペラ(作曲家、歌手)の中心、生産地としての影響力を堅持
し続けることができた、ということなのだろう。

おそらく、厳密な形式上の違いは、18世紀中盤以降にならなければはっきり現れない。
いくら本を読んでも、18世紀初頭におけるヴェネツィア派とナポリ派の
形式上の違い(あるにはあるが)がはっきりしない、よく分からない。
これは、
実は形式上、さしたる違いはなく、
政治経済上の理由から、二つあった中心地の一つヴェネツィアが没落し、ナポリが残った。
残ったナポリのおいてさらなるオペラの発展が継続した。
ゆえに、後世から見ると、ナポリ派がヴェネツィア派を「駆逐」したかのように
見えるのではないか・・・とおいらは見ましたね。

で、ヘンデルはどちらなのかね?

それにはまず「ナポリ派」とは何かを定義しなくてはならない。
が、おいらは学者じゃないので、水谷彰良氏の定義を借りると、
「ナポリ生まれの作曲家、およびナポリで教育を受けた音楽家、ナポリの劇場で
 活躍した作曲家」ということになる。

ヘンデルのイタリア滞在の中心地はローマであり、ヴェネツィア、ナポリにも
滞在しているが、ナポリで教育を受けたとも、(中心に)活躍したとも言えない。
1710年にイギリスに渡って以来、39作のオペラを書いたが、
かなり後期になっても、ヴェネツィア由来の台本によるオペラを作曲している。
しかしながら、ナポリ派の作風の影響もしっかり受けてもいるのである。

時期的に見ると、18世紀中盤の重要なオペラ作曲家であるし、
同時期のヴェネツィアは、もはや没落している時期になるのだが、
ナポリ派にヘンデルを入れてしまうのには、抵抗がある感じがする。
印象的には、ヴェネツィア派の台本、作風に、ナポリ派テイストを振りかけ加味した、
という感じではないだろうかね?

これは、バロック(音楽)期を、バッハの死んだ1750年でバッサリ
終わらせた後世の学者の都合であって、生きて活動していた当人達は
そんなもん知らないし、まったく関係のないことだ、というのと
同じ気がするね。

そしてヘンデルは、イタリア修行を終えてイギリス・ロンドンに渡り、
「オペラ興行」という事業をはじめたわけだ。
あくまでも、私企業の経営参画者であって、国家宮廷にやとわれていたわけではない。
つまり、バッハのような「宮仕え」は一生しなかった、というわけだ。
それって一発当てれば大儲けだけど、不安定な地位だよね。
でも、ヘンデルはそうした。自信があったんだろうね。

では、ヘンデルの「オペラ興行」は順風満帆だったのか?
というと、実はそうでも ない・・・。

(というところで続く)
 
 
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